時間っていうのは
まるで一定じゃないもので
長くもなれば短くもなるし
早くもなれば遅くもなる

もちろん止まることもある
消えてなくなることも

僕の体験上
十分ありえることだ



経験的世界とはどういうものだろう
マーヒーヤからフウィーヤへ

無と有の境目



僕が頭を悩ますのは、この世界の事である
この世界というのはあくまで僕の世界の事である

それは僕が見渡せる、限りある世界ともいえるし
僕が想像しうる、限りない広大な世界ともいえる




僕の世界とは何か
僕の経験してきた世界そのもの

ぼくはよくあの時のあの人は今どうしているだろうか
とふと思いついたりする
そして無性に会いたくなったかと思うと
虚しさだったり、郷愁みたいなものを感じたり、とにかく憐れな自分を嘆いたりする

その中で、ぼくが生きるこの世界で
確かにその人が今も存在するかと言えるのだろうか


もう何年も会ってないあの人
その何年かの物語

物語には語られないものが沢山ある
僕の人生でも、語り尽くせないものは沢山ある

語られなかった物語は存在するのか
存在するとすればどのように存在するのか





久しぶりに会った友人が居たとして
その彼が自ら過去を諭さないかぎり
その人の過去は存在しないんじゃないかと空想する

人の過去は作られたものであることはわかる
大きく捏造されていく
綺麗に彩られ、額にはめられ、何度も手直しされたりする
修復もすれば、書き直し、追記や補足だって重ねていく


人の過去というのは
とても魅力的なものである

大きく捏造された話の中に
その人が自らを物語っていく



ここに語られた世界と
語られなかった世界がある




語られなかった部分を、人はどう埋め合わせしているんだろう
過去は言葉にされなくても伝わることは大きくある

言葉じゃないからこそ伝わることもあるのだ

しかしそれでも、伝わりきらない過去というのはどうしても出てくる
誰も知らないその人の語られなかった世界

その世界は果たして
本当に存在したのだろうか



存在したとして
そこにどんな意味があるのだろうか











大切な人との過去があって
それが2人だけの思い出だとして
その人がいなくなり
誰も語ることがなくなれば
その人との思い出を失ってしまうのではないか




もっといえば
ぼくはその人と
本当に会っていたのか
その人と本当に仲が良かったのか
定かではなくなってくる














人生を物語ることの重要性のうえに
語られなかった部分について


もっと深く考えなきゃ
勉強しなきゃ